八百万ING〈日本本来の創造・イノベーション〉シリーズ『2つの世界観:二元論と多元論』

*本記事は、ひとつの大きな物語の小さなピースです





『自然観・人間観、そして自己観が違えば、一切の認識が変わる』



はじめに、このシリーズで頻繁に使うことになる「二元論」「多元論」という言葉の、シリーズ内での意味、そしてそれぞれから生まれる異なる自己観について説明しておこう。


ここで言う「二元論」とは、西洋文化を基盤とする現代文明を支配する考え方・思考、すなわち、生存することが容易でない厳しい自然環境の中で、自らを自然から切り離し、その自然と対峙せざるをえなかった人間が生み出した世界観に見られる、天と地、善と悪といった相対立する2つの原理によって事物のありようを説明しようとする立場を指す。


例えば、西洋文化の核にあるキリスト教の、天上に神、地上にはその被造物である人間とそれが管理支配すべき他の動植物・自然があるという教えに見られる自然観・人間観、それに密接に関わる「人間中心主義的」なものの見方は、この二元論的思考の典型的な形である。


現代文明の二元論的世界における「常識」の核には唯物主義がある。自然も人間(心を含む)も「物質」であると考え、そうした認識が現代社会を形造る自然科学のベースになっている。


この世界では、自分とは外側に見える肉体のことであり、自分の「死」とは主として肉体的機能の停止を指す。そのため、自己観は、異なる肉体を持つ他人を自分と分ける(自他の別)の認識、そして自分が肉体であるがゆえの物理的な制約から生じる時空の枠にとらわれたものとなる。


こうした自己観のもとでは、自分の肉体の生存や快楽(自我の欲求、自分の感情)の追求が重視される。そして、自他を分ける認識から生じる競争や対立の弊害に対処するために、自我を抑制・管理する法律や宗教の戒律などが発達する。これが、現代社会の姿といえよう。




日本的多元論


一方ここでいう「多元論」は、「八百万の神」に象徴される世界観、「日本的多元論」ともいうべきものを指しており、複数の原理によって世界を説明しようとする立場(例えば古代ギリシャのエンペドクレスの説)を指す、哲学における一般的な用法とは異なる。


世界的にもきわめて特殊な地形的・気候的特徴を持つ日本列島に住み着いた古代日本人は、多様かつ変幻自在な、「ときに慈母のごとくときに厳父のごとき」自然に抱かれ生かされる中で特有の自己観を培い、それを明治維新以前まで受け継いでいた。


それは、「こころ」こそが自分であり、その「こころ」の中で自分と森羅万象を隔てる境界は希薄化ないし消滅し、他者の悦び・苦しみを自分のこととして感じる、すなわち「すべての生命=自分」と捉える自己観である。


この自己観のもとでは、肉体にとらわれない「自分」は、自他の別の認識からも時空の枠からも解き放たれており、肉体の死は「自然に帰る」ことで、自分・こころは「不生不滅」であるという死生観を持つようになる。


これは、毎年のように災害に見舞われても、必ず季節は巡って再生する、たおやかで恵み深い自然に身を預けているがゆえに、物質的に不変なものはひとつとしてないことを、「明るく受け入れる」ことができた日本人、同時に、一見して都合の悪いものや隠れているものの「有難さ」にも気付き、大きな視点を持って、善悪・清濁の別なく「何でも大らかに受け入れ調和させる」風土が根付いた土地で暮らす日本人が、自ずとたどり着いた境地とも言えよう。


日本人は、いわゆる「人の道」、自我を抑える高度な文化も自然から学び取り、また、多様で変化に富む日本の自然からの刺激の中で、物質・実在感にとらわれない独特な「ものの見方」・「こころの目」も育んだ。そしてこれらが両輪となって、仏教で言うところの真我とも言える自己観の涵養・定着を支えてきた。


こうした自然観・人間観、そして自己観に根ざす日本的多元論の世界観は、多様なものが存在しながら、それらが対立せず優劣もなく、渾然一体となっている点が特徴である。

このように、自然観・人間観、そして自己観が違えば、一切の認識が変わる。そして、それぞれの先に開ける未来も変わるはずだ。

(つづく)

文・八百万ING(やおよろじんぐ)




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